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statement

 ある行為をする場合、その裏には実際には行われなかった、行われうる可能性のあった行為が無数に存在する。言語でいう連合関係のようなもので、主体の選択次第で現れるかもしれなかった潜在的なものである。例えば「私は校庭を走る」と言った時に、「私」ではなく「あなた」や「彼」が、「校庭」ではなく「道路」や「公園」が、「走る」ではなく「歩く」や「見る」が、それぞれ文を組み立てる候補として潜んでいる。行為もこれと同じで、「手」で「ござ」を「破る」以外の可能性があったかもしれない。とはいえ、この行為が作品に繋がるものの場合、「はさみ」で「布」を「裁つ」のではまったく意味が変わってきてしまう。「手」で「ござ」を「破る」ことは作品にとっての必然であって、その行為が為されないことは作品の価値さえも変えてしまう。ここで問いかけるべきは「その行為は何だったのか」ということではなく、「その行為はその行為であったか」という、もっと根本的な部分である。
 行為と言語に上のような類似があるならば、この「その行為はその行為であったか」という問いは「その言葉はその言葉であったか」とも置き換えることが可能である。僕はこの二つの問いに行為/言語の意味への示唆を含ませている。つまり、「その行為/言語はその行為/言語(のあなたが思う通りの意味を示すもの)であったか」ということ。僕は作品によって、あるいはこの行為/言語活動の意味の発生自体に目を向ける。それらに対する自分の解釈、あるいは観客自身による解釈の感得を促すような状況を、作品として提示することを、当面の目標としている。
(2009年9月)

 私は世界を改ざんする。

 思えば幼少の頃から、世界のもう一つの形を探していたように思う。というと壮大だが、何のことはない、それは「もしも」で自分と世界を接続していたということ。「もしもここでこう言ったらどうなるかね」「もしもこれが本当はあれだったら面白いね」。テレビを見て、おもちゃで遊んで、ベッドで寝転がって、「もしも」が思いつく度に逐一親に報告していた。それはその瞬間の自分にとっては大発見だったのだろうけれど、実際は本当にくだらなくて、どうでもいいようなものばかりだったんだろう。詳しくは覚えていないから、多分その通り。だけど、つまるところ今の私の作品も同じようなことかもしれない。「もしも」の向こうにあるもう一つの世界に向けて世界を改ざんしている。幼少の頃のような突拍子も無い世界ではなく、今の世界と地続きの、ただ少しだけルールの違った世界に向けて。

僕にとっての美術の面白さはそこにあるんだと思う。たとえ改ざんされたもう一つの世界にはならなくても、それが考え方としてインストールされたなら、この世界もそんなもう一つの可能性を持った場所として機能しそうな気がするし、そういう可能性がこの現実に潜んでいると思うと、それを探すのが僕の美術を続ける動機として強く存在する。
(2009年3月)



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